かなしいカンバスが描くものに -まえがきに代えて-

これは舞台だ、と雷に打たれたようでした。ブザーが鳴り、暗転した劇場の中そっと浮かび上がるシルエットと、そして…声。
今年のツアーでのソロ『星の王子さま』。ネタバレをかたくメンバーから止められているのでこれくらいしか言えないけれど、とにかくそのとき腑に落ちた気がしたんです。ああ、これがやりたいのかと。そして、ソロを初めて聴いたときの違和感が消えて、さらに「曲を提供したい」と何度も言っていたのにも得心がいった気がしました。

誤解を恐れずに書くならば、最近のしげあきは、自分にやれない範囲を自覚してるんだろうな、と思っています。もちろんネガティヴな意味ではなく、適材適所という意味に近いです。わかりやすい例だと、『ピングレ』の映画化、『傘蟻』のドラマ化。このあたりで痛感した"手放す"という行為は、おのれの仕事に自信持ちはじめ、かつ、自分のやれないことを、やれるひとに"託す"というものだろうと思っています。手放すことと放棄することは当たり前ですが同義ではないですからね。そしてそのわかりやすい発言が、「曲を提供したい」になるのだと。

彼はシンガーソングライターではなく作曲家にカテゴライズされるだろう、とはわたしがずっと言ってきたことです。そして作曲と演奏と文筆業を兼ねるひとは古今東西に居て、しげあきももれなくそのうちの一人だと思っています。
感性の感度が高いばかりに世界中の灰汁という灰汁を拾ってしまい、そんな自分に耐えられなくて自分でもものづくりをしてしまう。このループは間違いなく芸術家のそれで、なおかつ「一次的」な表現能力なのでしょう。(一次的、などはいずれまた)

およそ1年前に『傘蟻』が出版された時に「そういう描写は装置だ」と、いまは廃刊したぴあで答えていたのを読んで、それこそ天を仰ぎました。うっわ言うた、装置言うた、そこにエモーショナルな何かは要らないらしい、と。これがわたしの言う「オンナの扱いヒドイ」になるんです……オンナってカンバスに自分の表現ができる行為のことを装置って言ったのか、と思ったら、もんんんんのすごく燃えました。それはまさに表現者の性、ーー業であり、そのようなひとと同時代に生きていることにわたしは感謝すら覚えたんですよ、……震えながら。

表現するひとは、基本的に何かに飢えてるわけで。それは愛情だったり、他ならぬ自分自身にだったりさまざま。でもみんなその問いかけから創作が始まるわけですよね。でもそれって…まあ…とてもかなしいことでもある……ひととしてかなしい。愛しいと書いてかなしい、と読むらしいんですが、まさにこれかなと思います。
もう、ここまできたらあとはしぬまでその茨の道を突き進むしかない。そんなのうつくしすぎる。そう気づけば、切なくてくるしくて、愛おしくて仕方なくなる。きっと情感たっぷりにえろいシーン書くより、「情動に沈める」と言った方がそそるーーこの違いが楽しいひとはもう、ごく一般的な生き方はできないんだろうなと……そう思うのです。ビビットでも恋愛しろしろ言われてそれでも首をなかなか縦に振らないのは、振らないんじゃなくて振れない、のではなかろうかと。いや、実際どうかはわかんないけど(苦笑)。
……実際わからない、のついでに言うなら、ももしゃんはこれを「リア充」って言ってますが、もしかしたらこれも前述のとおりに「そこに山があったから」の感覚で装置に乗っかってる気もするんです……そこでホンモノの「充」になったら書かなくて済むんですよねえ…

つまるところ、この世のすべてはカンバスなのだろうと思います。生きるために描く、そのためのカンバス。この世で生きるためにこの世をカンバスにするなんておかしい、と思われるかも知れないけれど、事実そういうひとが音楽家や作家には多いし、少なくともわたしにはそう見えます。
そしてそれが、ものすごく愛(かな)しくて、うれしくて仕方がない。

このブログがどう転がってくかはまだ正直手探りで、最初のテーマを「染色」にしよう、という話もあったのですが、実際に書き出すとここに触れざるを得ませんでした……おそらく触れておかないといずれ煮詰まるのではないかと思うし、また、所信表明というか、「入るならのれんを見てからにしてはいかがでしょう」というような内容でもいいのではと考え直した節もあります。そのうち「メタ」についても触れたい……(備忘)。

丸腰で出てきたあのソロのときの姿に、あの欲望に研ぎ澄まされてそれでいてノーブルな姿に敬意を表して、こう結ぼうと思います。

「世界が全て正解じゃない」から、とにかく、書いてみようとおもうんだ。

(それにしてもやっっっぱり、この歌詞ほんっっとにえっち)

 

 (も'o'ち)