白昼夢と無限ループ

白昼夢。
 
早売りの日またもやもちを頑張りまして、朝セブンイレブンに行って受け取って電車でなんとかエンコードしてこっそりケータイで白夜〜冬月を見て午前中の就業中にひんし。そして遅い昼休み、休憩室みたいなところでMV側もあいぽんに入れました。
 
みた。
 
( ゚д゚)??!!
 
意識飛んだ。
 
上記みたいなかおをリアルにしてしまい、それから真顔(というかたぶん腰抜けた)かおで画面見てたもんだから、倉庫も兼ねてる休憩室にやってきた上司にビビられたのですが、それももはやどうでもいいくらいに骨抜き。
ちなみにわたしはふだんデスクで食べるか外にフラフラしに行くかでめっっっったにそこにいないから余計にビビられたんだろうなあ。しかし、そんなことどうでもいい。
とにかくあれは白昼夢だった。ももしゃんと巫山戯て話してた夢魔が昼間に現れた。世界がぐずぐずになった。溶ける角砂糖、落ちたホールケーキとべっとりくずれたクリーム、そんな感じに"わたし"の境界線が曖昧になった。わたしと世界が混じりそうになった。
 
 
なにあれなにあれなにあれなにあれ!!イマジネーションとインスピレーションのかたまり!!!わたしのこころボッコボコやんヒドイヒドイ!!!!(;ω;(;ω;(;ω;`)
 
 
これが初見のおおよその感想です、MV版『ESCORT』の。
 
みなさんご存知のとおり、あれ、「大使閣下の料理人」の中の言葉から着想を得たわけですよね。それを!それを!!!!!
さらに発展させるの!!たったひとつの言葉から生まれたものを完結させ、なのにそこへさらに別の視点が来る。
「女性ではなく、悩んでる人をESCORTしてもいいんじゃないか」
 
これ、ものすごい上位置換。誰もがやれることではないのに、あの人はやるわけだ。
そもそも、そう「発想できる」こと自体が、わたしが先のエントリで書いた「教養」ですね。これさーーーーー、なんか偉い大学教授が教養のエントリ書いたあとに同じようなこと言ってたから、オオオオわたし間違えてなかった!ってうれしみでした。事実教養あるひとが、「何かを作るためには教養が必要です」言った。じゃあわたしそれなりにあってたんだな!
 
そしてそのあと、昨日のクラウドのことばで泣いたわけです。
 
「物作りの人の性」「やったほうがいいこと」「くるっとまとめて」「正直誰にも負けたくね」
 
なんてこった、表現者の根底にある、でもじつは秘めたいことを臆面もなくぶちまけやがった。
そう、頭叩かれたように涙出ました。これ、おそらくほんとに舞台に立たされたり作品を人目にさらされたひとにしかわからないんだと思うけど、あの悔しさって、生きたいっていう証左なんですよ。
 
どれだけ毎時失望を重ねても、重なった分だけ生きるエネルギーになる。
 
彼のエロティシズムについては前エントリでももしゃんが書いてた通りです。ももしゃんてばわたしがいつもくるんと求肥で包んでしまうところをぜんぶつまびらかにしちゃったもんだから夜中寝れなくて相変わらず寝不足です。ももしゃんありがとう。もも語録もありがとう。さすがエロフェッサー。
 
貪欲。ももしゃんはこうも言ってましたね。……あのね、もう書くことないんだわ実際(苦笑)。ほぼ言ってるもん。
 
まあ…メイキングで言ってたところから察するに、あのオンナノヒトとギャルソンさんは付き合ってたこともあるんだろうし(それで来店するオンナノヒトすげーな)(てかそれネタにする加藤さんすごいね)、なにより、
 
わけわかんないことやりたかった
 
これですよ。
(いま出先なので言葉が正確かわからないので申し訳ないんですが、あとで修正します)
ハハハハハハなにそれ、物は言いようだな!って笑ってしまった。わけわからんはずがなかろうて!
わけわかんないというのは「ぱっと見」わけわかんない、ってだけで、それ自体が意味を持つんですよね。これ通じるのかな(ももしゃん以外に)。
 
あのひとのうつくしさはあくまで付加価値だと思ってます。いや、確実に二物三物としてもらってるんだけど、もらってるのをもう、持て余さない。持て余さないどころか、自分のビジュアルですら手駒にしたわけですね、自分の表現スタイルのための!(こうなるとズボラ飯あたりの一万字インタビューが懐かしいね!)
 
「加藤が出てないとファン怒るでしょ」
(出先のためニュアンス)
 
いや、少なくともわたしはたぶん、怒んない。むしろあんな表現スタイルの攻撃を受けてマジでサンドバッグなんだな、ってほんとボロボロになりましたアザス!こころが裂けるかと思うくらいボロボロになった。そしてしあわせなんだな、これが(さめざめと)。
 
昨日、MVみながら、この向上心はどこからくるのか、を考えました。わたしは、自分があのひとの向上心にボッコボコにされることで奮起するタイプなのは自覚してます。ピアニストとか音楽が相手ならばいつものことなので耐性がすでにあるんだけど、加藤さんはいつもいつも慣れないんだよね。(そういえば昨年末のミュージックデイ?の「ANTHEM」でガチ吐いたこともあったなあ懐かしい)
加藤さんの向上心は、たぶん何らかの「更新」があるから(いやこれは、誰でもだ)。で、彼の更新のスイッチはなんなの?と考えたところ…
ちょうど昨日少クラでNEWSニッポンとチャンカパーナを歌いましたがそれを聴く限り、あ、なるほどメンバーか、と。まあそうだわ、あんな人たちが隣にいたらスイッチ入りまくりだわ……。
 
「侵入されて初めて人間は考える」そうです。
ということは、加藤さんはいつもいつも侵入されてるのだろうと思う。この場合の侵入とは、未知との遭遇、です。もしくは、前のエントリでも書いた「世界の灰汁」。とにかく、そういう、自分の中になかったもの。
わたしと、これを一緒に書いてるももしゃんもよく「よくもまあそこまで考えるもんだ」みたいなことを言われるそうですが、わたしもももしゃんもそんなつもりないんですね。ふつうなんですよこの考え方……たぶんそれが育ち方(過去)なのだと思うのですが。
で、おそらく加藤さんはその感度がめっっっちゃ高い(ももしゃんもだけど)。そして、思考回路も他の人より果てしなく複雑に動かせる。で、これまた本人にはそうそう自覚はないんだろう…あるのかもしれないけども、それが本人にとっての通常なのだろうと。
 
ももしゃんはわたしに投げると言いましたが、いや、もう、言うことないかなと思う。以下引用。
 
>今の理論でいくと、カトウ白が今のところネストの最深部に居るよね。
これがコアなのかな。加藤成亮=カトウ白なのかな。
カトウ白がコアでも面白いけど、もっと「一次的」であり「二次的」である加藤シゲアキをプロデュースしたい加藤成亮がカトウ白の中に居るんじゃないのかな。
 
>でもまあコアに近い所にカトウ白があるとするなら、やっぱり加藤シゲアキ本体のフタをあけたいんじゃないのかな。
彼のエロティシズムは前から知ってたけど、もっと出したいんじゃないのかな。(いろいろな意味で)
 
もうお気づきの方も多いと思います。わたし今回、加藤さん、としか書いてません。なぜなら……わかるでしょう、そういうことです。
 
 
人は生まれながらに表現欲求があるそうです。それはもしかしたら三大欲求に等しいのかもしれない。
そして、表現というのは突き詰めれば突き詰めるほど、削ぎ落とせば削ぎ落とすほどに色気を帯びます。
それを具現化したのがMV『ESCORT』だったのではないかと、そう思うのです。
理性と本能の極限のせめぎ合い、その具現化。
 
ESCORTされて、掌の上で転がされて、ボロボロになって。それでも立ち上がる無限ループ。
 
 
もち。(も'o'ち)ノシ

カトウさんエロすぎ警報/手越さんアトラクション並びすぎ問題

ほわいとみたよ。
 
ソロMVもみたよ。
 
なんですかあれ。カトウさん。面白いね。
なにが面白いかってね。カトウ白はカトウギャルソンのインナーワールドだと仮定すると、
カトウ白がカトウギャルソンにネスト(入れ子)して、それをカトウ監督がネストして、そこに観客(わたしたち)がネストするというマトリョーショカ。それをまたふたをあけて
私がこの感想を書いたのを見てもちをがその感想を書いたりしたらまたまたネスト。
うほうほ楽しい。
 
あのカトウ白、いつも隠してるエロさむき出しにしてきてるね。いつも冷静なのに(もも語録、察して。)熱いね。
あのカトウ白、なんのフタ開けようとしてんのかな。役としてのカトウギャルソンのフタ開けるだけのために出してきたわけじゃないよね。
 
もちをの書いた「一次的」なカトウさんもありつつも、「二次的」なカトウさんも炸裂させたいって思いが絶対あるよね。
 
※ここで「一次的」と「二次的」に関して、少しだけ注釈を加えると
「一次的」な表現とはなにもないところからアイディアをひねり出す創作、骨子。「二次的」は、与えられたお題を増幅する、肉付け。作曲と編曲とか、原作と映画とか。
 
「一次的」カトウさんは、それなりの立ち位置を自覚していて、そこから繰り出すクオリティに見合った「二次的」表現をするひとを求めている。自分の作品を昇華させたいっていう願いね。
それは間違いない。
 
でもこのMVを見る限り「二次的」表現者としての自分もあきらめていないというか、自分で持つ「一次的」能力と拮抗した「二次的」表現者でありたいってのをすんげえ感じる。
 
貪欲だね。加藤シゲアキ
 
今の理論でいくと、カトウ白が今のところネストの最深部に居るよね。
これがコアなのかな。加藤成亮=カトウ白なのかな。
カトウ白がコアでも面白いけど、もっと「一次的」であり「二次的」である加藤シゲアキをプロデュースしたい加藤成亮がカトウ白の中に居るんじゃないのかな。
 
そのあたりはもちをに投げておこう。怒られそうだけど。
 
でもまあコアに近い所にカトウ白があるとするなら、やっぱり加藤シゲアキ本体のフタをあけたいんじゃないのかな。
彼のエロティシズムは前から知ってたけど、もっと出したいんじゃないのかな。(いろいろな意味で)
 
かねがね彼のソロはいつでも「エロくてリア充」だって私思ってて。
「いつも当然のように相手がいる」のよね。
 
当然のように眠りにつく前にはファスナーをおろす相手がいて、ベッドの上でお魚ちゃんのように泳いだり。ちょちょいとつつくと若き淑女もすぐ陥落(甘落)してふたりでかくれんぼ。
ヴァンパイアですら生死がかかっていてもまっすぐな愛しかないし。
星の王子さまもね、前に進むのが辛くなったときには、苦悩をうずめる方法がそばにちゃんとあって、そこには息づかいときぬ擦れしか聞こえない、そんな情交。
 
どれも愛の終わりは設定されてなくて、今の甘い生活はいつまでも続くのが当然なのよ。そこに出てくるひとはだれも別れる日なんて想像しちゃいない。(噛まなければ)
 
シゲちゃんが「リア充」とか、「いつでも相手がいる」って言いたいのではなくて、そういう愛情が理想なのかなって。
シゲちゃんにとって愛(情交)とは日常にふつうにあるもんなのよ。だからカトウ白ってばあんなにエロイの。
 
 
対して手越さんのは期間限定の愛ね。
いうなればアトラクション。
行列に並んで、ドキドキを体験するわけですよ。
たとえばフラれる瞬間まで心離れにきづいていないジェットコースター。急激に上がった恋は急降下して、もうジェットコースターの降り場なのに、ほかの男に抱かれてると思うと耐えられないキイイイイイイってなってる。はやく降りて。
あとは観覧車ね。ピークすぎて別れるまでのカウントダウンを好んでしてる。相手のことを思って観覧車から降りなきゃってなって、別れが迫ってるからこそ燃え上がるみたいな。
なぜか彼、この観覧車の景色が気にいって何回も乗ってる。しかも下りが好きみたい。
まあね、はじめてハダカみたときのドキドキが薄れるのが嫌で一緒にお風呂に入りたくないひとだからね。いつでもドキドキしてたいなら新しい恋がいいわな。
 
 
でね。そうやって観覧車が好きなのも、自己分析ができているからなのよね。
「観覧車に乗りたい」っていうソロの希望出している時点で彼はちゃんと「一次的」思考を持っていて企画力も備わっているわけだ。
でも彼は「2次的」なところに重点を置いているというか、自信を持っているのよ。
 
Theme of "QUARTETTO"の最初のうちあわせの時に「寝てた」って手越さん言ってたでしょ。なんでそんなことしちゃうんだって思うよね。
でもわたしその「寝てた」っての見て私それ見てニヤニヤしちゃったの。それが何を表すかというと、
「打ち合わせしているメンバーやスタッフに全幅の信頼をおいている」ということ。チームワーク作りがしっかりできている。
そしてもう一つ、「(信頼する人から)出てきた企画は、素材の味を生かしてしっかり調理しきる自信がある」ということ。
「打ち合わせ」が嫌いなのも、材料を揃えるのは自分じゃなくて、とても熱意をもって、カジキを釣っている人がいるから信頼して任せている。
はやくカジキ持ってきて、おいしいの作るから。って待ってる。
企画をパッケージ化するべく手をこまねいている。
 
つまりそこはシゲちゃんと同じで、自己分析ができているからこそ、「一次的」なところは得意な人に譲って、適材適所というべきか、チーム全体の事を考えてなのか、自分のすべきところに最大の熱量を注ぐために爪を研いでいる。
 
この「自分のすべきところに最大の熱量を注ぐべく」というところについてはまたいつか掘り下げたいなあ。
 
シゲちゃんが、「二次的」表現者としての自分も底上げしたいと貪欲なのに対し、
手越さんは、「二次的」表現者としての自分をもっともっと押し上げたいと思っていると思うの。「一次的」なことは得意な人にまかせて。そういう貪欲さ。というか、システマティックなとこある。シゲちゃんのが泥臭い。どっちがいいってわけじゃなく。
目標を高い所に置いて、それを達成するためのステップを築いて、どうやったらその最終目標に対し太く堅牢なトンネルをスピーディーに作れるか。
スピードも重視しちゃうから、時々ハンドル操作を誤って血まみれになってるけど、ただじゃ起きない。
 
 
…思考が暴走したわ。
その件についてはまた(ほんまか??)
 
 
とにかく、NEWSに関しては、増田さんは間違いなく一次的なひとだし、小山さんはコーディネイター。調整役。これは二次的。
 
一次的なことを得意とするのが二人、二次的も二人。
で、日和見がひとりも居ないのがすごいのよね。これだけダイナモ動かしてたら風もくるわ!!ってのはヲタの欲目かな。
 
というわけでWhiteまた逝ってくるわ!
 
ヲタの皆様方、ツアー中盤です。体力つけてのりきりましょう。イケメンのパンチに負けないように。

もも┌(●'o'●)┐

花束を君に

今日はしげあきの入所日です。おめでとうございます。このひとが1999年のこの日あの事務所に入って「この仕事を食って腹に入れたいくらい好き」にならなかったら、わたしは今頃こんなことしてないはずです。ほんとに。

おめでとう、ありがとう。


さて、タイトルが出落ちなのは一度置いておいて。
先日ともだちが言った言葉がとても印象的でした。
「いまさら捏造しなくても、シゲの過去はもうあるのに!」
……惚れる。わたしのともだちカッコイイ!! きゃー惚れる!(しかもモデル並みのちょー美人)

これを踏まえて、ももしゃんからのバトンを考えてみようと思います。

あともちをの「1次的」に対しての「2次的」
これ、「手放す」に対する「任せる」ともいえます。
これ早急にやろう

こうなっていたので、とにかく書いてみよう、と考えてたんですが……
一次的、二次的。この定義はとても難しいんですよね。
たとえば、わたしが育ちながらやってきたピアノは、「二次的」に分類されるものです。先人たちが作曲したものをアナリーゼ(楽曲分析)し、理解を深め、自分の技術を高めて表現すること。そしてその中の一環としてやった作曲が「一次的」になるのだと考えます。
なので、一次的とは「みずから生み出し、己で表現すること」かと。

最近よく、新しく人に会う機会があるのですが、その中でとくに印象的だったのが『自由になるためには教養が必要である』と教えられたことです。これはゲバラの娘が言った言葉とのこと。
教養とは何か、と考えてみたのですが、よくわかりませんでした。単語の意味は調べればわかるのでしょうが、ここで必要なのは単語の意味ではないのでしょう。わたしが書いた文章に「教養なくしてこの文体と内容は書けない」と先日お褒めの言葉をいただいたことがあったので余計に考えました(ちなみにネット上でその作品は発表はしてません)。
わたしに教養はありません。これは断言できます。
でも、ある、と言われました。

では、教養とは何か?

置き換えるとするならば「過去、何をやってきたか」ではないかと考えました。わたしの場合、ピアノ、たまに文章を書く、オカーさんと議論を交わす、さだまさしを聴く。そういうことがわたしの過去です。
だとしたら、わたしを作っているのもそれらです。

しげあきにはありますね。とてもわかりやすいです。学歴、事務所の所属の長さ、言葉の端々から感じられる育ちの良さ。すべて教養です。
そしてやはり、それらは積み重ねられた過去です。その過去から生み出されたものが、楽曲であり小説でありコラムであり、日々の言葉なのだと思います。

さらに今年に入って顕著だったのが、先のエントリでも触れた"手放す"ということ。これを言い換えるなら、"開ける"が良いかも知れません。
作品に対して、「これは己のものである」と固執し、閉じた世界にいるのではなく、発表し、他人の目に触れることを臆さず、そこからの評を受け入れ、そして、"できない部分、でもやりたい部分"を他人に"託す"こと。
できないことは悪ではありません。言うなればそこに閉じこもること、停滞することこそが悪です。その殻を破って、行定監督や『傘蟻』のスタッフさんに「お任せした」ーーわたしとももしゃんが話してることというのは、そんな彼こそが一次的であり、映画やドラマが二次的な部分なのだろう、ということなのだと思います。
そして前エントリで話した、「楽曲を提供したい」もまた、それになるのだろうと。
……ここから、ゆうやさんと「二次的」なものの話になりますが、ここはももしゃんのテリトリーです。

表現するって難しいです。殊、言葉で表現することは難しい。わたしとももしゃんがやろうとしてることも「表現者のことを自分の言葉で表現する」という入れ子構造な上に、お互い答えを模索するためにやってるものだから、余計に小難しいです。
でも、それと闘うのが、表現する、ってことなんじゃないでしょうか。そこに一次的、二次的な線引きはなく。

わたしを作り上げたものの中にしげあきはいません。ゆうやさんもNEWSもいません。過去に存在として居たけれど、構築要素ではないんですね、ふしぎなことに。
ただ、わたしを"肯定できる"ものの中には、NEWSがいて、その最たる存在がしげあきなんです。
構築ではなく、肯定してくれる構成要素、みたいな感じなのかな、と思います。

うーん……ちょっとわかりにくい説明になりましたが……ももしゃんパース!(投げた)(ヒド)

成亮には、いてくれてありがとう、続けてくれてありがとうと言いたい。だからわたしはさらに、居続けてくれるようにシゲアキをずっとすきでいて、しげあきがすきです、と言い続けようと思ってます。
毎日、毎時、瞬間瞬間のことだけど、それでも今日は、言葉を束ねて、贈りたいと思います。

 

 

やさしさと弱さと強さをもつひと

スペシャでさくガのネタバレ見てしまった。
序盤から気持ちが入っていてこみあげるものがありました。そして曲終わりの切り替えの「メンタルモンスター」までが見どころでした。
オーラス後に「涙をふいているのを見た」って言う人が多かったけど、目の下についた桜のはなびらを取るところが、そのしぐさが見えない方のひとからはそう見えていたかなあと思ってたの。左ほほについたはなびらは彼のところからはなれたくなかったみたいで、取るのにてこずっていた姿をいまでもしっかり思い出します。
でも、映像になったのを見ると私が見た花びらを取るシーンは無くて、それ以外のそういうしぐさや表情がみてとる事ができます。大切なひとを想う姿が。
 
で、ここからの切り替えがすごくてね。
この一曲は亡くなったお父さんに捧げると決めていたけれども、でもここはコンサートの場で、彼はエンターテイナーであらねばならない。観客のことは決して忘れてはいけない。さくガのゆうやは最後の音が終わった瞬間に消えます。こういうところが尊敬できて、やっぱり好きだって思い知らされてしまう。
 
ゆうやをよく見ているヲタクのひとはよく知っているんだけど、彼はとてもとても真面目で傷つきやすいひとなのですよ。だからヲタクであればあるほどいろいろ心配しちゃう。強がっているんじゃないかなあって。
でも私は、彼はマイナスなものが入ってきたときに、それを咀嚼してプラスにして出すという訓練はしっかりされていると思う。
つい最近もあったよね、
にゅーりんで「少し良くないことが久しぶりに起きてもうたんだけれどもタイミングとしては厄払いじゃないけど不幸中の幸いでこのタイミングしかないというときに起きてよかった!!」って。
「良くないことが起きたけど」「よかった」で締めれる。これはやはり彼が好んでとりいれてる自己啓発本の効果だとおもっています。
だからそんなに心配しなくていいんじゃないかな(と、自分にもいいきかせる)
 
私がここで書きたいと思っているのは、そういったメンタルコントロールの部分とそれをしっかりやらねばならなかった感受性の強さ、そして、彼の自己マネージメント力。自称「ひとみしり」の「ひとたらし」力。
そしてにゅーすの末っ子の「ひとみしり」はぜんぜん意味あいが違う、でも根っこは一緒なんだとか、もちをも書いていたけど、表現するにも適材適所があってそれをわかっているとか。
 
前エントリでもちをが「基本的に表現する人って何かに飢えているわけで」と書いてたけど、まさにわたしもそう考えていて、自担手越祐也もとても飢えている。その飢えたエピソードにぶち当たるたびに母性は「そんなに不安がらなくても貴方はもうちゃんとたくさん持っているよ」と叫びたくなる。でも餓えていないと前に進めないのだなと思うと貪欲なファンである私は見守るしかない。いやじっさい見守る以外できないのだけど…
 
あとあと、先週の「嵐にしやがれ」で「ジャニーズ1の暴れ馬手越祐也」と言われてたけど、ゆうや嬉しかったろうなぁ。暴れ馬だろうがなんだろうがとりあえずジャニーズ1は取れた(笑)もちろん彼が欲しいのはジャニーズ1じゃなくてもっととびぬけたところにあるので3合目踏んだというところかなぁ。
これもマネージメントの一環だと思っているよ暴れ馬くん。
 
あと書きたい事を備忘録的に置いておくよ(もちをのマネ)
 
けーらじの3/1と3/8かな。コーナーが終わるという事で叫びだしたやつ。
「2期連続ドラマ打ち切られるの!おりゃあもう出ねえぞ主演はつらいな戦犯とか言われる2番手3番手がいいわ視聴率良かったらほめられる悪くてもせめられない(以上てごしの初体験でした)主演は本当につらい(うっひゃっひゃ)」(いきつぎなし)
これの隠された意味、書きたい。
 
あともちをの「1次的」に対しての「2次的」
これ、「手放す」に対する「任せる」ともいえます。
これ早急にやろう
 
暴れ馬マネージメントのことは書くかどうかわからん。爆弾やし。でも彼の事をよく理解している参謀が居る説を書きたくなったらそれに絡めて。
 
こんなかんじで書きたいことはたくさんあるけどみんなホワホワしててちっとも文字として結ばない、頼りない事このうえないももをでつが、もちをの力を借りてとりあえずはいくつかはがんばってみよう。
 
では次エントリはもちをの「1次的」ってやつです(むりやり)どうぞ~

もも┌(⚫︎'o'●)┐

かなしいカンバスが描くものに -まえがきに代えて-

これは舞台だ、と雷に打たれたようでした。ブザーが鳴り、暗転した劇場の中そっと浮かび上がるシルエットと、そして…声。
今年のツアーでのソロ『星の王子さま』。ネタバレをかたくメンバーから止められているのでこれくらいしか言えないけれど、とにかくそのとき腑に落ちた気がしたんです。ああ、これがやりたいのかと。そして、ソロを初めて聴いたときの違和感が消えて、さらに「曲を提供したい」と何度も言っていたのにも得心がいった気がしました。

誤解を恐れずに書くならば、最近のしげあきは、自分にやれない範囲を自覚してるんだろうな、と思っています。もちろんネガティヴな意味ではなく、適材適所という意味に近いです。わかりやすい例だと、『ピングレ』の映画化、『傘蟻』のドラマ化。このあたりで痛感した"手放す"という行為は、おのれの仕事に自信持ちはじめ、かつ、自分のやれないことを、やれるひとに"託す"というものだろうと思っています。手放すことと放棄することは当たり前ですが同義ではないですからね。そしてそのわかりやすい発言が、「曲を提供したい」になるのだと。

彼はシンガーソングライターではなく作曲家にカテゴライズされるだろう、とはわたしがずっと言ってきたことです。そして作曲と演奏と文筆業を兼ねるひとは古今東西に居て、しげあきももれなくそのうちの一人だと思っています。
感性の感度が高いばかりに世界中の灰汁という灰汁を拾ってしまい、そんな自分に耐えられなくて自分でもものづくりをしてしまう。このループは間違いなく芸術家のそれで、なおかつ「一次的」な表現能力なのでしょう。(一次的、などはいずれまた)

およそ1年前に『傘蟻』が出版された時に「そういう描写は装置だ」と、いまは廃刊したぴあで答えていたのを読んで、それこそ天を仰ぎました。うっわ言うた、装置言うた、そこにエモーショナルな何かは要らないらしい、と。これがわたしの言う「オンナの扱いヒドイ」になるんです……オンナってカンバスに自分の表現ができる行為のことを装置って言ったのか、と思ったら、もんんんんのすごく燃えました。それはまさに表現者の性、ーー業であり、そのようなひとと同時代に生きていることにわたしは感謝すら覚えたんですよ、……震えながら。

表現するひとは、基本的に何かに飢えてるわけで。それは愛情だったり、他ならぬ自分自身にだったりさまざま。でもみんなその問いかけから創作が始まるわけですよね。でもそれって…まあ…とてもかなしいことでもある……ひととしてかなしい。愛しいと書いてかなしい、と読むらしいんですが、まさにこれかなと思います。
もう、ここまできたらあとはしぬまでその茨の道を突き進むしかない。そんなのうつくしすぎる。そう気づけば、切なくてくるしくて、愛おしくて仕方なくなる。きっと情感たっぷりにえろいシーン書くより、「情動に沈める」と言った方がそそるーーこの違いが楽しいひとはもう、ごく一般的な生き方はできないんだろうなと……そう思うのです。ビビットでも恋愛しろしろ言われてそれでも首をなかなか縦に振らないのは、振らないんじゃなくて振れない、のではなかろうかと。いや、実際どうかはわかんないけど(苦笑)。
……実際わからない、のついでに言うなら、ももしゃんはこれを「リア充」って言ってますが、もしかしたらこれも前述のとおりに「そこに山があったから」の感覚で装置に乗っかってる気もするんです……そこでホンモノの「充」になったら書かなくて済むんですよねえ…

つまるところ、この世のすべてはカンバスなのだろうと思います。生きるために描く、そのためのカンバス。この世で生きるためにこの世をカンバスにするなんておかしい、と思われるかも知れないけれど、事実そういうひとが音楽家や作家には多いし、少なくともわたしにはそう見えます。
そしてそれが、ものすごく愛(かな)しくて、うれしくて仕方がない。

このブログがどう転がってくかはまだ正直手探りで、最初のテーマを「染色」にしよう、という話もあったのですが、実際に書き出すとここに触れざるを得ませんでした……おそらく触れておかないといずれ煮詰まるのではないかと思うし、また、所信表明というか、「入るならのれんを見てからにしてはいかがでしょう」というような内容でもいいのではと考え直した節もあります。そのうち「メタ」についても触れたい……(備忘)。

丸腰で出てきたあのソロのときの姿に、あの欲望に研ぎ澄まされてそれでいてノーブルな姿に敬意を表して、こう結ぼうと思います。

「世界が全て正解じゃない」から、とにかく、書いてみようとおもうんだ。

(それにしてもやっっっぱり、この歌詞ほんっっとにえっち)

 

 (も'o'ち)