白昼夢と無限ループ
カトウさんエロすぎ警報/手越さんアトラクション並びすぎ問題
花束を君に
今日はしげあきの入所日です。おめでとうございます。このひとが1999年のこの日あの事務所に入って「この仕事を食って腹に入れたいくらい好き」にならなかったら、わたしは今頃こんなことしてないはずです。ほんとに。
おめでとう、ありがとう。
さて、タイトルが出落ちなのは一度置いておいて。
先日ともだちが言った言葉がとても印象的でした。
「いまさら捏造しなくても、シゲの過去はもうあるのに!」
……惚れる。わたしのともだちカッコイイ!! きゃー惚れる!(しかもモデル並みのちょー美人)
これを踏まえて、ももしゃんからのバトンを考えてみようと思います。
あともちをの「1次的」に対しての「2次的」
これ、「手放す」に対する「任せる」ともいえます。
これ早急にやろう
こうなっていたので、とにかく書いてみよう、と考えてたんですが……
一次的、二次的。この定義はとても難しいんですよね。
たとえば、わたしが育ちながらやってきたピアノは、「二次的」に分類されるものです。先人たちが作曲したものをアナリーゼ(楽曲分析)し、理解を深め、自分の技術を高めて表現すること。そしてその中の一環としてやった作曲が「一次的」になるのだと考えます。
なので、一次的とは「みずから生み出し、己で表現すること」かと。
最近よく、新しく人に会う機会があるのですが、その中でとくに印象的だったのが『自由になるためには教養が必要である』と教えられたことです。これはゲバラの娘が言った言葉とのこと。
教養とは何か、と考えてみたのですが、よくわかりませんでした。単語の意味は調べればわかるのでしょうが、ここで必要なのは単語の意味ではないのでしょう。わたしが書いた文章に「教養なくしてこの文体と内容は書けない」と先日お褒めの言葉をいただいたことがあったので余計に考えました(ちなみにネット上でその作品は発表はしてません)。
わたしに教養はありません。これは断言できます。
でも、ある、と言われました。
では、教養とは何か?
置き換えるとするならば「過去、何をやってきたか」ではないかと考えました。わたしの場合、ピアノ、たまに文章を書く、オカーさんと議論を交わす、さだまさしを聴く。そういうことがわたしの過去です。
だとしたら、わたしを作っているのもそれらです。
しげあきにはありますね。とてもわかりやすいです。学歴、事務所の所属の長さ、言葉の端々から感じられる育ちの良さ。すべて教養です。
そしてやはり、それらは積み重ねられた過去です。その過去から生み出されたものが、楽曲であり小説でありコラムであり、日々の言葉なのだと思います。
さらに今年に入って顕著だったのが、先のエントリでも触れた"手放す"ということ。これを言い換えるなら、"開ける"が良いかも知れません。
作品に対して、「これは己のものである」と固執し、閉じた世界にいるのではなく、発表し、他人の目に触れることを臆さず、そこからの評を受け入れ、そして、"できない部分、でもやりたい部分"を他人に"託す"こと。
できないことは悪ではありません。言うなればそこに閉じこもること、停滞することこそが悪です。その殻を破って、行定監督や『傘蟻』のスタッフさんに「お任せした」ーーわたしとももしゃんが話してることというのは、そんな彼こそが一次的であり、映画やドラマが二次的な部分なのだろう、ということなのだと思います。
そして前エントリで話した、「楽曲を提供したい」もまた、それになるのだろうと。
……ここから、ゆうやさんと「二次的」なものの話になりますが、ここはももしゃんのテリトリーです。
表現するって難しいです。殊、言葉で表現することは難しい。わたしとももしゃんがやろうとしてることも「表現者のことを自分の言葉で表現する」という入れ子構造な上に、お互い答えを模索するためにやってるものだから、余計に小難しいです。
でも、それと闘うのが、表現する、ってことなんじゃないでしょうか。そこに一次的、二次的な線引きはなく。
わたしを作り上げたものの中にしげあきはいません。ゆうやさんもNEWSもいません。過去に存在として居たけれど、構築要素ではないんですね、ふしぎなことに。
ただ、わたしを"肯定できる"ものの中には、NEWSがいて、その最たる存在がしげあきなんです。
構築ではなく、肯定してくれる構成要素、みたいな感じなのかな、と思います。
うーん……ちょっとわかりにくい説明になりましたが……ももしゃんパース!(投げた)(ヒド)
成亮には、いてくれてありがとう、続けてくれてありがとうと言いたい。だからわたしはさらに、居続けてくれるようにシゲアキをずっとすきでいて、しげあきがすきです、と言い続けようと思ってます。
毎日、毎時、瞬間瞬間のことだけど、それでも今日は、言葉を束ねて、贈りたいと思います。
やさしさと弱さと強さをもつひと
かなしいカンバスが描くものに -まえがきに代えて-
これは舞台だ、と雷に打たれたようでした。ブザーが鳴り、暗転した劇場の中そっと浮かび上がるシルエットと、そして…声。
今年のツアーでのソロ『星の王子さま』。ネタバレをかたくメンバーから止められているのでこれくらいしか言えないけれど、とにかくそのとき腑に落ちた気がしたんです。ああ、これがやりたいのかと。そして、ソロを初めて聴いたときの違和感が消えて、さらに「曲を提供したい」と何度も言っていたのにも得心がいった気がしました。
誤解を恐れずに書くならば、最近のしげあきは、自分にやれない範囲を自覚してるんだろうな、と思っています。もちろんネガティヴな意味ではなく、適材適所という意味に近いです。わかりやすい例だと、『ピングレ』の映画化、『傘蟻』のドラマ化。このあたりで痛感した"手放す"という行為は、おのれの仕事に自信持ちはじめ、かつ、自分のやれないことを、やれるひとに"託す"というものだろうと思っています。手放すことと放棄することは当たり前ですが同義ではないですからね。そしてそのわかりやすい発言が、「曲を提供したい」になるのだと。
彼はシンガーソングライターではなく作曲家にカテゴライズされるだろう、とはわたしがずっと言ってきたことです。そして作曲と演奏と文筆業を兼ねるひとは古今東西に居て、しげあきももれなくそのうちの一人だと思っています。
感性の感度が高いばかりに世界中の灰汁という灰汁を拾ってしまい、そんな自分に耐えられなくて自分でもものづくりをしてしまう。このループは間違いなく芸術家のそれで、なおかつ「一次的」な表現能力なのでしょう。(一次的、などはいずれまた)
およそ1年前に『傘蟻』が出版された時に「そういう描写は装置だ」と、いまは廃刊したぴあで答えていたのを読んで、それこそ天を仰ぎました。うっわ言うた、装置言うた、そこにエモーショナルな何かは要らないらしい、と。これがわたしの言う「オンナの扱いヒドイ」になるんです……オンナってカンバスに自分の表現ができる行為のことを装置って言ったのか、と思ったら、もんんんんのすごく燃えました。それはまさに表現者の性、ーー業であり、そのようなひとと同時代に生きていることにわたしは感謝すら覚えたんですよ、……震えながら。
表現するひとは、基本的に何かに飢えてるわけで。それは愛情だったり、他ならぬ自分自身にだったりさまざま。でもみんなその問いかけから創作が始まるわけですよね。でもそれって…まあ…とてもかなしいことでもある……ひととしてかなしい。愛しいと書いてかなしい、と読むらしいんですが、まさにこれかなと思います。
もう、ここまできたらあとはしぬまでその茨の道を突き進むしかない。そんなのうつくしすぎる。そう気づけば、切なくてくるしくて、愛おしくて仕方なくなる。きっと情感たっぷりにえろいシーン書くより、「情動に沈める」と言った方がそそるーーこの違いが楽しいひとはもう、ごく一般的な生き方はできないんだろうなと……そう思うのです。ビビットでも恋愛しろしろ言われてそれでも首をなかなか縦に振らないのは、振らないんじゃなくて振れない、のではなかろうかと。いや、実際どうかはわかんないけど(苦笑)。
……実際わからない、のついでに言うなら、ももしゃんはこれを「リア充」って言ってますが、もしかしたらこれも前述のとおりに「そこに山があったから」の感覚で装置に乗っかってる気もするんです……そこでホンモノの「充」になったら書かなくて済むんですよねえ…
つまるところ、この世のすべてはカンバスなのだろうと思います。生きるために描く、そのためのカンバス。この世で生きるためにこの世をカンバスにするなんておかしい、と思われるかも知れないけれど、事実そういうひとが音楽家や作家には多いし、少なくともわたしにはそう見えます。
そしてそれが、ものすごく愛(かな)しくて、うれしくて仕方がない。
このブログがどう転がってくかはまだ正直手探りで、最初のテーマを「染色」にしよう、という話もあったのですが、実際に書き出すとここに触れざるを得ませんでした……おそらく触れておかないといずれ煮詰まるのではないかと思うし、また、所信表明というか、「入るならのれんを見てからにしてはいかがでしょう」というような内容でもいいのではと考え直した節もあります。そのうち「メタ」についても触れたい……(備忘)。
丸腰で出てきたあのソロのときの姿に、あの欲望に研ぎ澄まされてそれでいてノーブルな姿に敬意を表して、こう結ぼうと思います。
「世界が全て正解じゃない」から、とにかく、書いてみようとおもうんだ。
(それにしてもやっっっぱり、この歌詞ほんっっとにえっち)
(も'o'ち)